なにか美味しいものを食べると、幸せな気分になる。誰かさんにもこれと同じものを食べさせたいと思うのは、自然な気持ちだ。
父、母、家族、友人、知人、先輩、後輩、仲間、恋人、旦那さん、奥様、などよくあることである。
随分昔、当店でキャンペーンを行ったことがある。
『牛肉のサーロインを抽選でゲットしましょう!』というもので、ご来店されたお客様から名刺を頂いて、後日、厳正なる抽選を行い、
晴れて当選の暁には、和牛のサーロインを200グラム、差し上げましょう!というものだった。
今考えると、よくもまあこんな太っ腹な企画をぶち上げたものだが、当時店は暇だったし、
なんとかしてお客様を呼びこめないだろうかと、頭をひねって考えついたのがこれである。
締め切りに集まった名刺の山に、手を突っ込み、当選者を無作為に引っ張り出す。
当選者は、10名と決めていたが、この山のような名刺を見るにつけ、まるで、生き物のような凄みがあった。
選べ!と言っているようだった。
僕の裁定で、当選者を倍の20名にした。
この山のような名刺を前に、少し怖気好き、また、全員に上げてもいいとさえ思ったが、さすがに、牛肉には限りがあったし、
心を鬼にして20人の人を抜き取ったのである。
当選者の一件一件に連絡をして、宅配便、包装紙、ダンボールと、いやあ、随分面倒なことを思いついたものだった。
よせばよかったと、少し後悔したな。
当選者の送り先は千差万別だった。
しかし、どういう訳か、送り先は家族であったり、田舎の母に送れ、孫に送れ、いや、妹にしてくれ、叔父や叔母、
あるいは郷里の父に食べさせたいなどであった。この方々の共通点は、当選したご自分では食べない。
誰かに食べさせたい、である。
あの和牛のサーロイン200グラムは、愛のメッセージなのである。
このキャンペーンは一銭にもならなかったが、当時の当選者のお客様は、時折顔を見せて下さるので、まあ、いいじゃないか、と思っている。
誰かさんにも食べさせたい、これはお客様に教わった唯一のキャンペーンの成果であったように思う。
於 本店厨房